終わりなきピースラン
三遊亭楽松師匠の長崎〜広島ピースラン・サポート記
2004年8月9-15日

8月15日午後5時2分
広島市平和記念公園にゴール
 (写真提供:城定睦さん)
長崎〜広島ピースラン
 いつの世になってもなくならない戦争反対の気持ちを込めて、人類に惨劇をもたらした原爆投下の日と第二次大戦の終結した日にかけて暑い中を走ろうという広島〜長崎間ピースラン。8/9に長崎・平和公園をスタート、1週間かけて8/15に広島・平和記念公園まで450キロをリレーする足での旅。ところがこのピースランが突然中止になった。それに納得できない三遊亭楽松師匠が一人でも走ると言い出した。

 実はこのピースランの前、師匠は真冬のオーストラリアを330km走られている。オーストラリアのカウラにかつて連合軍捕虜収容所があり、第二次大戦中、そこで日本人捕虜の集団脱走事件があり200人以上が銃殺された。カウラにはその日本人捕虜を現地の人が手厚く葬った日本人墓地がある。その事件から60周年となる今年、事件発生の8月5日にカウラの日本人墓地をスタートしてシドニー・オペラハウスへ向かおうというカウラ〜シドニー330kmランが企画され、そのメインランナーが楽松師匠だったのである。雪や雹の降る氷点下の山越えなど過酷な天候の中、64時間かけて走破し、その直後長崎入りされたのだった。

 その師匠のピースランをサポートしようとUMMLや玄海100kmML、ホームページなどで呼びかけた結果、ようやく直前になってサポート体制が整った。
 長崎からのスタートは横田さん等、佐賀の前後は佐藤三郎先生等、そして鳥栖から博多、門司港までを自分達がサポートし、門司港で東京組にバトンタッチすることになった。

■ 8月11日 佐賀〜博多
 初日(8/9)は長崎を昼過ぎにスタート、大村まで約30km、到着は21:30。二日目、大村〜佐賀66kmはさすがに時間がかかり、23時近くにゴールしたとのことだった。
三日目、佐賀〜福岡55km、なかなかペースが上がらないようで、予定どおり鳥栖で合流することにした。
 13時に仕事を終え、特急に飛び乗り、14時過ぎ鳥栖に着いた。あまりの暑さに眩暈がした。鳥栖ICまでわずか3km程度走っただけで草臥れ果ててしまった。この日の最高気温は36℃、おそらくアスファルトの上は40℃くらいになっていたのではないだろうか。鳥栖からは峯啓子さん、山本哲也さんと自分の3人が併走、江口裕さんが車でサポートしてくれた。
 久しぶりに会った師匠は真っ黒に日焼けし、頬がこけ、精悍な顔つきになっていた。それに対して足はパンパンに腫れ上がっていた。オーストラリアからの距離は既に400kmを越え、足が腫れるのも無理はない。加えてこの猛暑、日が高いうちは走れるような状態ではなかった。
 それでも日が傾くにつれ徐々にペースが上がり、併走者が置いていかれるような有様だった。どこにこれだけのパワーが残っていたのか、驚きである。
 最後は松尾さん、スーツ姿の原田さんも加わり、ゆっくり歩いて、21時過ぎ博多に到着した。風呂に入ってから師匠と明日の打合せ、その後二升瓶へ飲みに行った。
8/11、佐賀〜福岡

15時、鳥栖ICで合流
右は鳥栖ICまで走った二升瓶の大将・酒井さん

筑紫野市付近を走る
左から山本哲也さん、峯啓子さん、楽松師匠

21時過ぎにゴール(ホテルエトスイン博多)
■ 8月12日 博多〜門司港
 この日は門司港まで77-78kmという長丁場。それをサポートするのは田中行広さんただ一人。自分は仕事があるため、師匠の荷物を持って一旦黒崎に戻った。予定では夕方黒崎で合流し、前村やよひさんも加わって3人で併走し、門司港で東京組にバトンタッチすることになっていた。
しかし今日もこの夏一番という猛暑、師匠もかなり足が痛いようでペースが上がらないと田中さんからTelが入った。そのため車に飲み物と氷を積み、昼休みに二人を捜しに出かけた。エアコンが効かない。外気温は37-39℃に達していた。
 ようやく東郷で二人を見つけた。博多と黒崎の中間点をちょっと過ぎたくらい。二人とも元気そうだったが、このペースでは深夜かなり遅いゴールになりそうだった。東京組の城定さんに連絡を取ったら、観光を切り上げて九州にすっ飛んでこられた。そして腫れ上がった師匠の足に合わせてやや大きめの靴を買い、師匠達と合流された。
8/12出発前、博多にて

みんなのメッセージが書かれたTシャツ

左から二人目が博多〜黒崎単独併走の田中さん
8/12、炎天下の博多〜黒崎

サポートに向かう途中の車の温度計

14:30、炎天下の東郷にて

遠賀川で東京組が合流
腫れた足に合わせて靴を替えた
(撮影:城定睦さん)
 18時前、前村さんが来た。しかしいつまで経っても師匠達が着かない。心配になってTelを入れた。あまり遅くなるならワープも考えた方がいいのではと言ってみたが、一人で走り通すという師匠の意志は固かった。そこで車で迎えに来てもらい、19時過ぎ、陣原で合流して併走を開始した。
 20時過ぎ、黒崎・病院前を通過。約3km毎に休憩を取りながら門司港へと向かった。博多から引っ張ってこられた田中さんとは八幡駅で別れた。夜になっても蒸し暑い。休憩の度に師匠の足を冷やしたが、腫れは引かない。かなり辛そうで、特に小倉北区清水とJR門司駅手前の陸橋では、階段を後ろ向きに下りられていた。痛々しいが、目だけはしっかり前を向いていた。そして昨日と同様、ゴールが近付くにつれ、ペースも上がってきた。慌てた併走者が転ぶ始末。そして0:45、17時間かけて門司港に到着した。
8/12、黒崎〜門司港

腫れ上がった師匠の足をアイシング
(小倉北区木町)

この日のゴールまでもうすぐ、我慢できずビールを飲む
(門司駅付近)

日付変わって13日AM0:45、門司港の旅館志福に到着
左から植村、師匠、前村さん
■ 8月13日 門司港〜防府
 長崎〜広島の中間点を過ぎ、いよいよ本州入りである。この日から東京組がサポートされる。門司港〜防府、防府〜岩国、いずれも75kmという長丁場で、防府にはAM2:20着、岩国着はAM1:25。疲労・睡眠不足も蓄積し、かなり厳しい状況だったようだ。
8/13、九州から本州へ

門司港出発前の記念撮影
左から城定さん、藤田さん、土屋さん、楽松師匠、
土田さん、前村さん

AM7:40、旅館志福前をスタート

九州から本州へ(関門トンネルにて、撮影:城定睦さん)

関門橋(撮影:城定睦さん)
■ 平成16年8月15日 岩国〜広島、そして
 足の痛み、疲労、睡眠不足にも負けず広島を目指す楽松師匠。いても立ってもいられず、師匠達に会いに行った。土砂降りの高速を飛ばし、AM10時、広島県大竹市に到着。岩国側に少し戻ったところで師匠達と合流した。
 小雨が降り、走りやすいようだった。パンパンに腫れ上がった師匠の足だったが、不思議と腫れが引き細くなっていた。最終日という余裕もあるのか、穏やかな表情だった。ここから大野町にかけて約2時間、車で併走したが、快調な走りだった。
 11:50、大野町役場近くに到着。正午、終戦記念のサイレンを合図に全員で黙祷を捧げた。このまま一緒に広島まで走りたかったが、予定が入っていた。楽松師匠のカウラ〜シドニー330km+長崎〜広島ピースラン470kmのウソ800km無事完走を祈り、握手をして別れた。
 そして8月15日17:02にゴールしましたと連絡が入った。

H17年3月、三遊亭楽松師匠から手紙をいただいた。そこには「恒久平和にゴールはありません。未だにピースラン走り続けています」、と書かれていた。
8/15、広島県大竹市

AM10時、ついに広島県です

大竹IC付近
広島県大野町

渋滞の中を走る

ビールが旨い!、城定さんと土屋さん

大野町下灘にて
大野町役場付近にて

8月15日正午、役場のサイレンを合図に全員で黙祷

広島に向けてスタート
残りあと23km
8/15夕方、広島市平和記念公園

ゴール後の記念撮影(撮影:城定睦さん)

原爆ドームにて(撮影:城定睦さん)
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